歴史について
安食村と水神社
安食村は古く川崎村といい文亀二年のころ,勝田惣右衛門ら[八件百姓]と称する土着の武士によって開発されたとされている.川崎村を安食村と改めたのは戦国期天正年間(1573~1591)であるという.安永五年(1776年)の川崎神社(辺引前板宮)本殿内保存の棟札を創建時のものとすれば,駒形神社大台移転の下限となる.駒形神社(鎮守社)が利根川べりの北のはずれに移された背景には,村の中心が水神社を中心とした地域に移動していたことが考えられる.
「成田の道の記」は寛永十年(1798年)の成田詣の際の記録で,「かど屋十郎兵衛」方に宿をとった.かど屋は立嶋の渡し付近にあった水神社の東方,現在の安食郵便局辺りにあったことがわかる.かど屋の付近は,「この辺り,水押し入り土手まで余程の廻り」とあって,低湿地であったことがうかがえ,渡船場へは宿の舟で,「直に越え,少し行きて渡し場」へ行く有様であった.
延宝五年(1677年)は将監川の利根川開疏工事の翌年で江戸期を通じ幕府の重要施策であった.
印旛沼開発の前段階とも言える.また天明五年(1785年)は老中田沼意次による印旛沼開発が実施される前年で,この地域が脚光をあびて来た時期であった.
水神社は長門川の堤防下にあり,土を盛り上げて神殿を建てている.
ここはかつて立嶋の渡し船場があった所である.
立嶋水神社は350年ほど前,豊作を念じ又水害なきようにと「水波之女命(みずはのめのみこと)」を祭神といたし,安食三社(大鷲神社・駒形神社・立嶋水神社)の一社として親しく崇拝される.
水神社の工事概要
水神社の勧請年歴は不明である.最初は藁宮であったのが延宝五年には社殿裏の石宮になったとされている.社殿の出来たのは現存する棟札より天明五年ではないかと考えられる.
そして,天保六年三月・安政五年三月・明治三十年四月と屋根替えや修理を重ね,大正三年五月に亜鉛葺(トタンぶき)に変えこれが今日までのものであった.破風板や棟木は藁屋根の物が用いられていた.昭和十二年二月神殿修理並びに拝殿新築を行っていたが,この時神殿框や回廊等の修繕を行ったと材料から推察された.
修繕については,古老の話より第二次世界大戦終了時より話題にのぼり「講」の人達が気にかけていた所であったと,しかし戦後の社会変動により「講」は解散し,下町一組の方も主守りに参加しなくなり仲町五・六組で年例大祭だけを取り行い,土地や社屋の事を気に掛け,幾度の委員会を設け積み立て貯金なども実施したがまとまらずに終わった.
平成八年五組・六組より委員選出し,十月十日水神社委員会の組織組員了承を得て活動に入る.
昭和五十七年一月~六十年三月まで土地購入資金として積立た資金を当てる事に了承頂き本殿屋根切り工事行う.平成九年三月九日完了する.
平成十年十月六日募金活動再開について,鷲町・仲町・下町の区長の意見・助言を聞く席を設け今後支援活動に協力お願いをする.
募金活動計画 平成十一年二月~九月まで
施行 平成十一年五月開始 九月完了
完工報告祭 平成十一年十月三日